黒帯

2010年12月2日 木曜日 by 山根 誠治

 空手をはじめた頃の目標は 黒帯を取ることだった 夢といっても良かった

黒帯まで辿りつくのは 数百人に一人といわれていた時代だ

実際 入門当初 広島には三名しかいなかった

先輩の締める黒帯は分厚くて ごつく 刺繍もはいっており異彩を放っていた

面白いもので 青帯の頃 先輩の黒帯をお借りして締めたことがある これが全く似合わない 滑稽でさえあった

やはり 相応の力がついてはじめて似合うものだ と改めて感じた

二年後 紆余曲折を経て 黒帯を取得した 自分なりに艱難辛苦を乗り越えてつかんだ

夢とも思われた黒帯を手渡され いざ締めてみるなり おもわず苦笑した

「 白帯より薄い 」(T_T) そして異常に長い

当時 帯号数4号の自分が締めると膝下まであった 「 これって7号?」

なぜかこの時期の黒帯は全国的に薄く 長かった 「 こりゃ 太れゆーことじゃ 」 思い直した

その後 この初段の帯には数多くの出来事・思い出が 刻みこまれていくのだが

無論 このときは知る由もなかった 

 ろっ骨骨折

2010年11月29日 月曜日 by 山根 誠治

 ’89 2月 右ろっ骨にヒビがはいった

二連覇が懸かった広島県大会を3週間前にして 日曜帯研のスパーリングで

まわりは稽古仲間であり 且つ ライバルでもある 誰のどの技かは 口が裂けても言えなかった

だが 自己申告はなくとも 当の本人は けっこう判っていたりする やはり それだけの感触が残るものだ

「ふふん ワシの右フックか」 などと

しかし このときは右わき腹 当時 左の気の利いた技を出す者はいなかった

” ハカイダー ”と呼ばれる強者連も 「はて?」 頭に?マークがついていた

何気のない左三角蹴りを 何気なく もらい 「ングッ!?」となっていた

わき腹の怪我をおしてまで出場する勇気はなかった 欠場を決めた時は目の前が真っ暗になったものだ

しかし なにが幸いするかわからない その後 全中国~ウエイト制~全日本と この年は目まぐるしく移り変わった

そのキッカケとなる ひとつの出来事であったことは まちがいない

 自転車 2

2010年11月27日 土曜日 by 山根 誠治

 朝の自転車が日課となっている

当初の目標だった長い坂は 休憩なしで駆け上がれるようになった

シフトも 一速から二速へと ”チェンジ” している 慣れとはおそろしいものだ

同時に 自分なりに コツがつかめてくる

まず 立ち漕ぎは 不可 息が切れ 体力が消耗するのみ がまんして座して漕いだ方が より下半身に効く

つぎに 上体がぶれないようにしっかりと上半身で支え 

左右にぶれる力を前に出る推進力に利用する これだけでずいぶん楽になる

もうひとつは ”無理をしない” という事 

身体と相談しながら 常に マイペースを心がけている 

 謎の空手家?

2010年11月26日 金曜日 by 山根 誠治

 道場祈願を懸け 氏神様にお詣りに行ったときの事だ

厳かな気持ちで 二拝二拍手一拝をしていると 境内の向こう 野武士系修行僧風の方がスクワットをしていた

「おー 鍛えとる!」 つぎには拳立てをしていた 「拳立てまでしよる?!」 もしかして空手家?それとも少林寺?

腕立てなら解るが 拳立てとなると普通ではない

齢50縺れ ガッシリとした体格の方だった

ひとり黙々と稽古している姿に声をかけるのもはばかられ 謎を残しつつ 後ろ髪ひかれる思いで神社をあとにした

” ひとりでやるのが稽古 ” 昔 聞いた言葉を思い出していた

 水泳

2010年11月24日 水曜日 by 山根 誠治

 高校時代 体育の水泳でけっこう鍛えられた

当時 水泳連盟公認の50mプールがあり 水泳は学校の名物でもあった

6月に入るや否や体育は水泳 寒かろうが 雨が降ろうがお構いなし

「泳いで暖まれ!」 てな具合だ 「ここは戸塚か?」 錯覚もした

800m持久泳 25mインターバル20セット 個人メドレー(バタフライ抜き) 25m潜水チャレンジ などなど

週3回 泳ぎに泳ぎまくった おかげで 下手な泳ぎも少しはまともになり

50mクロールでなんとか40秒を切れるようになった

速いのは 水泳部でもないのに30秒そこそこで泳ぐのもけっこう居た それくらい鍛えられた

水を飲んだり おぼれかけたり 死にそうになりながらも これでもかと泳がされ 

苦しいながらも楽しい水泳だった(^_^)