`87 5月 はじめての出稽古は京都支部。
ゴールデンウィーク最終日の日曜日に出発した。
当時は日曜日の昼間、帯研を行っていた。
帯研後、食事をし、汗だくの道着とサポーターをそのままバッグに入れて新幹線ヘ。(×_×;)!
帯研メンバーがホームまで送ってくれて、万歳三唱をしてくれた。
「万歳ってそんなオーバーな」とも思ったが、同時に不安がよぎっていた。
直前の帯研で痛めていた脛のよこを、強力な下段を受け再度痛め、あまりの痛みに恥ずかしい話、道場でしばらくうずくまっていた。
「こんなんで大丈夫か~出稽古~、しかも、京都支部!」
超猛稽古の京都支部。そんなイメージだった。実際、強豪揃いだ。
今となっては思い出せないが、京都までの約3時間、如何様な心持ちだったのか。
出稽古出発
2014年2月25日 火曜日 by 山根 誠治ケンカ空手
2014年2月14日 金曜日 by 山根 誠治今日、道場に石があった。
人間くらいの大きな石だ。しかも、スパーリング中に。
よく見ると人間だった。
道場でうずくまっている人を見かけたのは、ほんとうに久しぶりだ。
むかしは当たり前の光景だった。
自分も青帯の頃は、毎回のように倒され、うずくまっていた。
そして、そこから這い上がった者は強くなっていく。
根っこはどうであれ “ケンカ空手”
やはり、この緊張感がいい (^_^)
年男
2014年1月23日 木曜日 by 山根 誠治今年は四度目の年男。先日、その日をむかえた。
大寒の日に生まれたからといって、寒さに強いかというとそうでもなく、かといって暑さに強いわけでもない。
そして、大寒の日をして雨という引きの強さ。我ながら惚れ惚れする。
まだ二十代の頃、いち早く三十代に到達した稽古仲間を冗談とはいえ、ジジイ呼ばわりしていたことに罪の深さを感じずにはいられない。
「三十過ぎてこんなことやってたら、ただのバカだよ!」そう聞かされていた。
当時はそれが常識だった。だが今では、三十代、四十代は当たり前。五十代の方でさえガンガン戦っていると聞いている。
常識とは打ち破るもの。そんな気がしてしょうがない。
骨折 Ⅱ
2014年1月18日 土曜日 by 山根 誠治治療後、先生に訊ねてみた。「あの~明日も試合あるんですけど」
すると先生は呆れた顔で言われた。「君、今度蹴られたら死ぬよ!」
いかに鈍感な自分でも、薄々感じていた。「今度蹴られたら、相当にヤバい!」
棄権の二文字が脳裏をよぎった。
だが… 勝負から逃げたくなかった。ましてや自分が青春を賭けた空手。
ここで逃げたらこれからの人生、ずっと逃げ続けるのではないか。当時はそんな大そうな思いだった。今では考えられないくらい純情だった。
結局、三回戦は本戦判定負け。何度か蹴りが顔面をかすめたが、どうにかこうにか無事だった。
初出場の全日本大会だったが、初日を勝ち上がり、強豪と最後まで戦えたこと。
恐怖心に打ち克ったこと。等々、実り多き思い出深い大会となった。
後日談だが、この大会は関東地方ではテレビ放映されている。ビデオを送ってもらい皆で観賞した。最初に二日目に勝ち残った32名の選手が映されたのだが、デッカイ高校生のなかに小学生が数人。そんな構図だった。
その内のひとりは、鼻に絆創膏、口は開き、目がほんとうに点になっている。皆で爆笑したものだ。
何故か人の不幸ほど?! あとで強烈な笑い話になる。それら全てが活力源となった。(^_^)
骨折
2014年1月12日 日曜日 by 山根 誠治人生初の骨折は鼻骨。二十歳の時、はじめて出場した全日本大会一回戦。上段まわしげりを鼻で受けた?
この時は引っ掛けからの技だったため、相手選手が注意1をとられた。
そのまま一回戦、二回戦を勝利し二日目に駒を進めた。
二回戦後、病院に行き、即、治療となった。これがなかなかの荒治療だった。
座高計のようなものに座り、鼻の穴に棒をいれ、 ”ぐぐぐ~~”っと折れた骨を元に戻していく。
なにせ、麻酔なしの人力で骨を動かすのだから恐れ入る。途方もない痛みだった。だが、仮にも空手家だ。静かに耐えた。
そして、力の加減もあるのだろう。その後、レントゲンを撮るのだが元に戻っていない。再び人力となる。
結局 (人力+レントゲン)×4セット くらい続いただろうか。最終的に ”ぺキッ”という音とともに骨が動いた感覚があった。
「動いた!!」おもわず先生も叫んでいた。
その後、骨が動かないようにと、副木の代わりに鼻の穴へ、これでもかというくらいに脱脂綿をつめこまれた。
当然、鼻呼吸ができない。この時、鼻で呼吸ができない辛さを思い知らされた。
いろんな意味で経験値が上がった ”初骨折”だった <(`^´)>